2020年1月2日
京建労70年のあゆみをひもとく資料として、活動が記録されている写真や機関紙は欠かせないものです。「その時、その瞬間」に写真に残る仲間の姿。どのような思いでその場にいたのか。なぜあなたは京建労の活動に参加していたのか…。
歴史を刻む数点の写真から、実際に写っていたり参加していた仲間に、当時の写真を見ながら振り返っていただきました。
【福井さん】
京都府の職業補導所を18歳で卒業した私は、中学校の先生の紹介で山口工務店に就職しました。親方は京建労の組合員で、「今日は西院の現場やで」と言われ、側車のついた自転車で七条大宮のお店から通っていました。
その現場はとても活気があり、作業するみなさんは笑顔であふれていました。あとで気づいたのですが、それは京建労の事務所建設で、無償で作業をされていたそうです。みなさん、仕事の合い間を縫ってはせ参じていたんですね。
私たち労働者は日当を頂いていましたが、親方は当然無償で請負をされており、その分を負担してくれていたんだと思います。
「これができたらたまり場ができる」と休憩時間に話されていたことをよく覚えています。
【石井さん】
1983年は前年に発足した中曽根内閣が掲げた軍拡路線と国鉄民営化などの行政改革が大きな政治的話題でした。
3月には5000人を目標とした「職人大集会」を企画し、5600人が参加する運動を築いていました。支部では書記長、本部では賃金対策部長をしていた私は、先輩たちから運動の先頭に立つように言われていました。
私たち労働者と、自民党を中心とした保守層の体制側との対立構図はより明確で、訪問などで仲間と対話しても「改憲けしからん。中曽根は許せん。労働者の敵」と話が噛みあい、家族みんなでよびかけにこたえてくれました。
写真のメーデーも「職人大集会」の勢いそのままに、多くの仲間が参加し「軍拡、臨調行革やめろ」「中曽根許さん」と高らかにシュプレヒコールを市役所前であげました。
【則藤さん】
建具職人としてこの業界に入りました。しかしサッシの普及から仕事が残っていくか不安に思っていたところ、京建労が職業訓練校を開校すると聞き、「技術は身を助ける」と信じ、一念発起して入校、大工の世界に入りました。
当時30歳の私は一番年上。10代の青年たちと机を並べ数学や規矩術を学びました。その時は週3回夜間講座。休みの期間を迎えるごとに、退学者も出て卒業者は3分の1ほどでした。
3年生には新築の棟上実習など思い出深い授業もありました。
【大槻さん】
この写真は確か始まって間もないころの住宅デーだったと思います。独身で青年部に加入していた私を、支部の役員さんや書記局が誘ってくれたんだと思います。私も仲間に誘われて「エエことしてるな」と快諾したことを覚えています。
当時の住宅デーは今のように分会で運営するという運動にはなっておらず、施設や住宅への技術奉仕をメインとした活動だったと思います。
写真の場所は亀岡市にある障がい者支援施設での作業で、主にサッシのメンテナンスを仲間と一緒にしていました。
こういう作業を年々重ねていく中で、作業する施設がふえたり、今のような分会での運営に変わっていったのだと思います。
1960年の事務所建設の写真に、頭に手ぬぐいを巻いた九鬼さんが腕組みをしてこちらを見る写真がありました。その奥には「八時間労働と日曜全休制で人間並の生活を」などの要求が書かれたステッカーが貼り出されています。
18人からスタートした京建労。彼らは苛烈を極めた重税取立てから仲間を守るために立ち向かいました。私たちの要求の根底には、建設従事者の処遇改善と労働条件の向上があります。
1960年代は休みといえば、1日と15日の月2回程度。現在私たちは週休2日を求めてたたかっています。「人間らしい働き方」を求め先輩たちが要求を掲げて、実現してきました。私たちも後退させることなく次なる未来へ運動を続けます。この70年の団結を…
つなぐ
【建築ニュース1157号(2020年1月1日・15日合併号)】