2025年1月3日
2024年1月1日、能登半島沖を震源地とするマグニチュード7・6の大地震が北陸地方を襲いました。特に能登半島での被害が大きく、住宅災害に加え津波や火災、震災関連死も含めて多くの命が奪われた大災害となっています。加えて9月には豪雨による水害にも見舞われました。私たちの仲間には能登を自身のルーツとする仲間も多くいます。この災害を通じ仲間が感じたこと、組合に望むことなど率直な今の思いを聞きました。
【醍醐・端さん】
「白米千枚田」の近くにある輪島市深見町一乗地区で生まれ育ちました。私の故郷は一本道の中にある集落で、発生時は道の崩落などで孤立集落となりました。
映像で慣れ親しんだ輪島の朝市が焼けている姿をみて、心が縮んでしまう思いでした。幸い近親者には被害はありませんでした。故郷のようすを確かめたいけど、見るのが怖いというのが正直な思いです。
【乙訓・小間さん】
私は旧鳳至郡門前町(現・輪島市)出身です。門前町は能登半島西部に位置し、2007年の地震でも大きな被害が出た場所です。
実家のある集落は非常に大きな被害があり、多くの人が家を失いました。避難所ぐらしなど本当に苦労したと近所の方から聞きました。私の実家も発生当時は持ちこたえましたが、のちに倒壊。現在解体を待っているところです。
集落の人たちは同じ仮設住宅団地でくらしていますが、これから襲う冬の寒さも心配です。
故郷に帰る家がなくなってしまったという喪失感が本当につらいです。
【西京・大畑さん】
私は輪島市の朝市のすぐ近くで塩せんべいを製造販売する「大畑せんべい店」の次男として生まれました。地震発生時はすぐ実家の兄に電話したところ、「梁がきしんでふすまが折れて」と危険な状況でした。
発生直後から1ヵ月間は余震もあったので兄夫婦を私の家に避難をさせていましたが、「一階で寝るのが怖い」としばらくは怯えたようすでした。
兄は輪島に帰ったのですが、兄のように商売を生業としている人たちは度重なる地震と水害で、本当に苦しい生活をしています。皆さんには日頃の支援に感謝しつつ、あらためて能登のものを買っていただき、経済的な支援もお願いしたいです。
【宇治・寺矢さん】
父は20年前に故郷である珠洲市折戸地区にUターンしていたため、今回の地震で被災しました。自宅は半壊でしたが、70軒ほどの集落はほとんどの家屋が倒壊しました。
大工をしている父は震災発生当初、倒壊家屋に閉じ込められた人などを消防団員たちと協力し、道具を駆使して救出したそうです。
発生時、能登に住む父や親戚との連絡が取れず心配しました。4日後に両親の無事を親戚から聞き、ほっと胸をなでおろしました。
以後はできる限り自宅と地区の手助けにと長期滞在も含めて大工仕事を現地でしています。私も父と同じ大工ですが、必要とされる仕事と感じています。
京建労では能登半島地震災害発生時から対策本部を設立し、さまざまな支援活動を行ってきました。全組合員を対象とした「支援カンパ」をはじめ、支援物資の運搬や現地で復旧支援ボランティア活動など、支援活動は多岐にわたります。
また全建総連を中心とした「応急仮設木造住宅」の建設従事者派遣も行っています。
仲間からのカンパは2024年12月で240万円を超え、被災者に届けられています。また復旧支援ボランティア活動では4月に対策本部先遣隊を派遣。6月に珠洲市で復旧支援ボランティア活動を行いました。
あらためて仲間の皆さんには、カンパなどの支援活動にご協力お願いします。
伏見支部は12月7日と8日の2日間、石川県輪島市などで仮設住宅での炊き出しや水害による住宅被害復旧支援活動などを行いました。活動には総勢22人が参加。醍醐支部や綴喜八幡支部、本部も応援参加しました。
輪島市の応急仮設住宅団地ではぶた汁や焼き肉など、温かい食事を中心に被災者に振舞い、「冷え込むからとてもうれしい」と被災者も支援隊に感謝の言葉を伝えていました。
【建築ニュース1259号(2025年1月1日・15日付)】