2025年1月3日
1月17日で阪神・淡路大震災から30年が経過します。「ボランティア元年」といわれる1995年に、京建労はどのような支援活動を行ったのか。当時の機関紙から、活動に参加した仲間にお話を聞きました。
【西京・大石さん】
当時私は青年部役員ではなく、西京支部の青年部員のひとりとして、青年部主催の支援活動に参加しました。
1月28日、土曜の夜に本部の宣伝カーと私の四駆車で乗りあわせ、被災地へ。西院の京建労本部から三田方面の山間部を通って神戸の兵庫土建会館に翌29日早朝に到着しました。
作業は会館の引っ越しの手伝いでしたが、床が傾いていて酔うような感覚だったのを覚えています。
以後も多くの救援活動に参加していますが、阪神・淡路大震災は私にとっては大きな経験の一つでした。
【左京・田辺さん】
私は当時、本部の副執行委員長として災害対策本部で対応にあたりました。
震災が発生したその日の夜に本部四役で緊急会議を行い、府内の被害状況を確認。その後、カセットコンロやブルーシートをできるだけ集め、西宮市の阪神土建本部に物資を届けるべく第一陣として1月19日に、私と吉野六郎書記次長ほかと現地入りしました。
その後は全建総連がまとめ役として各県連組合に被災市町を振り分けて支援作業を行いました。京建労各支部は2月に芦屋市で数度、のべ276人が参加し復旧作業を行いました。
私の記憶の中では、京建労が京都府を越えて災害復旧作業を行ったのはこれが初めてだったと思います。この経験がのちの活動の礎になったことはいうまでもありません。
京建労は建設技能者集団として持てる技術を発揮し、被災者の支援活動に全力を挙げてきました。
組合結成直後の1953年の南山城水害には95人が仕事を休んで1週間、住宅補修などの支援活動に参加。これをきっかけに井手町に分会組織が生まれ、その後の京都府南部地域の組織化につながりました。これが「災害支援活動」をとりくむ伝統となり、「困難あるところに京建労あり」といわれるゆえんでもあります。
1995年に発生した阪神・淡路大震災や、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震、2024年の能登半島地震などでは救援募金や数次にわたる現地でのボランティア活動を本部と支部で大々的にとりくみました。
台風や豪雨被害などで住宅被害が出た時も、真っ先に被災地に駆けつけ、「京建労ここにあり」とのぼり旗を立てて被災者を励ましています。
今後も国民や仲間が困難に直面した時、真っ先に駆けつけ、被災者を励ます京建労であり続けるために、皆さんのご協力をお願いします。
【建築ニュース1259号(2025年1月1日・15日付)】