2024年3月18日
【本部教宣平和部長・梨子本忠士】
被災70年2024年3・1 ビキニデー集会(静岡)、70年という節目の年に今回初めて参加させていただきました。私は組合活動に関わるまで、正直なところ事件についてあまり記憶にありませんでした。そこでこれを機に現地に行って自分の目で見て感じ、話を聞き、何か京都へ持って帰りたいと思いのぞみました。
集会会場に到着すると、全国から約 700人、オンラインで約 240ヵ所からの参加がありました。
その後分料会があり、私は「映像の分科会」に参加、当時の映像(ドキュメンタリー映画)など4本ほどを鑑賞しながら討論するというものでした。
映像と解説があり大変わかりやすく、さまざまな質疑応答もあり、充実した時間でした。アメリカによる太平洋での水爆実験、現地のマーシャル諸島の島民とともに、操業していた日本の多くのマグロ漁船も被ばくし、獲った魚の投棄を余儀なくされ、被ばくの他にも風評被害が横行。そんな中、当時の日本政府や、アメリカの対応はひどいものでした。
2日目は、デモ行進を行い、被害者の一人で、漁に出ていた第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんが眠る焼津市の弘徳院へ向かいました。法要が行われており多くの人々と墓参りをさせていただききました。そこには大きく「原水爆の犠牲者はわたしを最後にしてほしい」と、久保山さんの最後のメッセージが揚げてあり、胸が熱くなりました。今の日本を久保山さんが見たらどう思うだろう? 唯一の戦争被爆国である日本政府は核兵器廃絶の先頭に立つべきではないのか? なぜ、核兵器禁止条約に参加していない? それどころかアメリカの傘下に入り、殺傷武器の輸出を解禁するなどどうなっているのか? 私は無念にも亡くなられた人々のことを思うと悲しくていたたまれない気持ちになりました。
参加して思ったのは、「若い人の参加が少ないのではないかな」ということでした。 発信力が強い若者にたくさん参加してもらって輪を広げてほしいと思いました。私自身今回経験して感じたことを家族や仕事の仲間などに一人でも多く伝え、一緒に考え、久保山さんが残した「原水爆の犠牲者はわたしを最後にしてほしい」の言葉を胸に抱き、この先50年、100年と語り継がなければならないと強く思いました。
【建築ニュース1242号(2024年4月1日付)】