この寺院は、1631年(寛永8)備前岡山藩主の池田光政により建立されたもので、ほぼ建立当初の形式を保存する重要文化財である。
構造形式は桁行十間、梁間七間の一重入母屋造で、屋根は桟瓦葺き。平面は六間に仕切り、中央奥に仏間、須弥壇(しゅみだん)を配する一般的な禅院方丈の間取りである。
建立後、江戸時代に6度、明治に入ってから1度の計7度の修理改造を受け、今日まで維持されてきたが、屋根瓦の劣化、雨漏りによる小屋組・天井の腐れ、床下の虫害などが甚しく、1969年(昭和44)、大規模な解体修理のはこびになったのである。
修理ではまず、地盤の不同沈下で建物が南西方向に傾斜していたため、地盤を充分に搗き固め、コンクリートを打ったのち、床束石を水平に据えた。
この本堂には、建立当初から桟瓦が葺かれていたため、大きな桁・梁が三尺ごとに配置された小屋束にしっかりと支える重厚な構えであったが、貫の半分以上を差し替える大仕事になった。
柱は七寸角の尾州桧を用いた立派なものだったが、その根元は白アリに相当食われていたため、2本をのぞいてすべて根継ぎを施した。
風雨や乾燥から襖絵守る腰高障子
本堂内部の各室を仕切る襖(ふすま)・杉戸・障壁には狩野山樂・山雪の筆によるとされる障壁画が、状態よく保存されてある。これらのうち四面は大正年間に美術工芸品として文化財指定をうけた傑作である。
障壁画はすべて創立当初のものと推定されているのだが、これらの保存に役立っていると思われるのが、東西側面・南側正面の落縁(おとしえん・広縁の外側に一段下げて設けられた縁)の先端にとりつけられた腰高障子である。この建具は1742年(寛保2)の修理の際に追加されたことがわかっている。
文化財修理では、後世の追加個所は排除して、旧状に復するのが普通なのだが、この腰高障子の場合は製作年代が相当に古く、かつ建物と合わせた外観が一致していることなどから、一体としての修理を行うことになったのである。
この障子が風雨や乾燥から建物を守り、結果として障壁画の保存によい環境をつくりだしたのである。