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「文化財の修理の現場から」は「建築ニュース」671号(1997年2月)~705号(1998年9月)まで連載された記事です。記事の内容は「建築ニュース」に当時掲載されたままになっています。ご了承下さい。

酬恩庵 庫裏

1998年5月15日(金)
建築ニュース698号より転載

一休禅師示寂の名刹

14-1.jpg南側(正面)からみた酬恩庵庫裏。妻入りの漆喰壁と黒々とした巨大な梁(はり)や海老虹梁(えびこうりょう)がバランスのよい造形美をかたちづくっている。

 最近、市政が施工された京田辺市の北西部、甘南備山に連なる丘の麓を切り拓いたところに、「薪の一休寺」が伽藍を構えている。

14-2.jpg正面玄関から広敷(板間)をみる。北側の縁まで通った大きな空間を復原。広敷の中央北寄りの囲炉裏(いろり)も当初様式にならって、今回新調したもの。

 この寺は「とんちの一休さん」でおなじみの禅僧・一休宗純が再興したことから、この名で親しまれているが、正式には酬恩庵という禅宗寺院で、創立は室町時代前期と伝えられている。

 本堂・方丈・庫裏・浴室・鐘楼などが重要文化財に指定され、府南部を代表する観光名所になっている。このうち私(横井)が修理にあたったのは庫裏である。

 庫裏は1652年(慶安5)に再建された一重(一部二重)の切妻造の建物だが、1789年(寛政元)の修理の際に柿葺きが本瓦葺きに改められたほか、前後して間取りも変更されたため、大規模な復原になった。

 とくに建物の西半分の間仕切りは、かなり古い時代(寛政年間以前)あり、幕末頃のものもありで、六畳の典座寮(てんぞりょう)に八畳の部屋と二畳の畳廊下を連ねるなど、僧侶たちの日常の暮らしの工夫がみられたのだが、建立当初の、北面まで突き通る広敷(板間)に復した。

 西南の台所にも、大量の土を約36センチの高さまで搗き固め、北辺東寄りと南辺中央に「くど」を配していたが、これも土を退ければ、束石がでてきたので広敷きより一段低い板間に復原。さらに、土間東辺からは三連の大きな「くど」跡が残っていたため、これも当初様式に戻す等して江戸時代初期の庫裏の姿を残す貴重な遺構となった。

 話は変わるが、解体の際、梁や桁にロウソクやら線香やらの煤(すす)が層をなしていたのには驚いた。煤は燃えやすく、こまめに取り除かなければ危険な代物。よくぞ今まで引火せずに済んだものだ。

息子の技術修得に熱心だった棟梁

 私をふくめ、5人の大工がこの修理に携わったが、棟梁は経験豊富な岩上政雄氏(故人)である。

 岩上氏は、当時、大工修業中だった息子さんを、現場に連れてこられ、修理工事の一部始終を見せておられたが、私は最近、伏見区の文化財修理現場で、その息子さんが腕を振るっておられることを知り、何かうれしい気分になっている。

 先輩の手元を見て仕事をおぼえ、古い継ぎ手を持ち帰っては仕口を学ぶという経験をもつ方が多い中で岩上氏は、今の職業訓練の考え方で、息子さんに接しておられたのかもしれない。

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