寺が洛中から現在地に移ったのは1432(永享4)年~1442(嘉吉2)年の間であるが、詳しいことは不明。本堂西側の枯山水の庭園は、室町時代の画家・狩野元信の築庭で、この頃の作と伝えられる。
解体修理は1952(昭和47)年から2年間。現在の本堂の建立年は長くわからなかったが、今回の修理の際に見つかった西側化粧裏板の釘書によって、1602(慶長7)年に再建されたことが判明した。
本堂は桁行7間半、梁間5間半の一重の入母屋造りで重要文化財。屋根には1908(明治41)年の修理の際に、旧柿(こけら)葺き野地に桟瓦が葺かれたが、今回、構造上問題のある小屋材を新材に差し替えて、元の柿葺き(椹板を三分葺き足にて竹釘で打ち留める工法)に復原した。
柿葺き屋根を支える小屋組みとは簡素なもので、垂木の間隔もまばらである。したがってこの本堂は、約半世紀にわたって瓦の負担に耐えてきたことになる。柱の総数32本のうち、9本を新調、15本を根継ぎする大がかりな工事になったのも無理もない。
平面形式は背面側の後補の下屋を撤去して、濡れ縁に、また仏間を前後2室分ける形式に復するなど、全体に禅宗方丈6間の構成とした。
葺替え需要に追い付かない檜皮の採取量
正門から庫裏のわきを通ると、重厚な造りの玄関が客を迎えるのだが、この玄関の特殊な形状にも目を奪われる。
玄関は桁行2間、梁間1間の折唐破風(おれからはふ)造りで、屋根は桧皮葺き。これも重文である。唐破風とは本来、優美な曲線を特徴とするのだが、退蔵院のそれは、緩やかなカーブの蓑甲の先端が、直線を組み合わせた軒付線に接続する。
寺ではこれを「袴腰(はかまごし)の玄関」と説明しているが、なかなか風情ある呼び名を付けたものだ。
玄関の柱は、円柱の天地を丸く仕上げ、虹梁中央から棟を支持する太瓶束(たいへいづか)など唐様の意匠がみられる。
修理ではここでも桟瓦を降ろし桧皮葺きに戻したのだが、すでに25年を経て相当苔むしている。そろそろ葺き替えの時期なのだが、残念ながら昨今は、葺き替えを迫られる寺社が多数あり、桧皮の採取が追いつかないという。森林の減少が、こんなところにも影を落としているのである。
