ナビゲーションをスキップ
月別
「文化財の修理の現場から」は「建築ニュース」671号(1997年2月)~705号(1998年9月)まで連載された記事です。記事の内容は「建築ニュース」に当時掲載されたままになっています。ご了承下さい。

大徳寺山内 聚光院 茶室

1997年12月15日(月)
建築ニュース690号より転載

千利休ゆかりの名席

 洛北に偉容を誇る臨済宗大徳寺。そのほぼ中央、本山方丈の西に位置するのが、聚光院である。

 この寺院は、大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、戦国武将の三好義継が、1556年(永禄9)に没した父の長慶を弔うために、硯僧宗訴(そうせき)を開山として創立。また、千利休が院の檀那となって以来今日まで、茶道三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)累代の菩提寺として在続し、現在、玄関・本堂・茶室が重要文化財に指定されている。

10-1.jpg南側の部屋からみた桝床席。一番奥が桝型の床。
10-2.jpg閑隠席の躙口(にじりぐち)。武家の出入りもあったのか、左上方には刀掛けがある。

 本堂の北側に位置する茶室は1741年(寛保元)頃の建立。桁行4間、梁間3間の一重で、切妻屋根を柿(こけら)で葺いてある。内部は西側に閑隠席(かんいんせき)、東側に桝床席(ますどこせき)と呼ばれる2つの茶席。それらに挟まれる形で3畳の水屋を配している。

 私(細川)が、茶室の修理に入る機会を得たのは、1975年(昭和50)。修理前の茶室は屋根が明治期の桟瓦で葺いてあったが、雨漏りで小屋組や天井、梁などの腐朽がひどく、床下も白蟻の害などで、目をおおう破損状況であった。修理は建立当初の状態にある茶席の壁を保全しながら軸部の取り替えを中心とした、半解体工事にてすすめることになった。

 腐朽のひどかった小屋組材の小屋束(松丸太)床大引、根太(松・杉)は姑息な補修で乱れていたが、旧材に倣い、当初形式に整え桧材に替え、耐久年数が延びるよう配慮した。柱は42本中16本を新調。4本は根継ぎとした、また床柱は樹脂を用いて整形した。

 とくに慎重を要したのは、閑隠席の壁の取りはずしである。小屋組を解体しながら、壁の散り(柱との接合部)を崩さないように、両面から挟んで静かにはずすが、元の位置に戻したときにわずかに散り切れが生じてしまい、同質土での補修を余儀なくされた。

 北側中央の水屋と、東側の桝床席の壁は、錆色をした赤聚楽(あかじゅらく)であったが、復原調査により、閑隠席と同質・同色に塗り替えた。

 また、たたみ1畳分、建物の外にせり出していた水屋棚と竹張りの「ながし」も元の位置に戻す。これは調査をかねて、手前の赤聚楽壁をこつこつと剥がしていった際に古い柱や棚の痕跡が見つかったためで、これは、文化財修理ならではの、こまやかな解体作業の成果といえよう。

小宇宙的な茶室と開放的な客間の対比

10-3.jpg閑隠席内部。炉は一尺四寸四方が定法。

 建物南側は6畳間が2室つづく。ここでは茶席の小宇宙的な空間と対比して、広びろとした開放感が味わえる。南の端の軒桁も差し替えたが、客人にもよく見える材であるため、杉丸太の良いものを千本今出川の銘木店で買い求めた。

 7間(約13メートル)にもなる、木口のそろった上物で運搬も慎重そのもの。前方で2人が笛を吹きながら交通整理をする中を、荷車2台に丸太を渡し、これに4人が付いて、現場まで曳いていくのだ。千本北大路の朝のラッシュの中を、材木をゴロゴロと曳いていくときは、少し恥ずかしかった...。

 聚光院茶室は、質素な中に臨済禅の厳しさを表現する名席として、茶人に広く知られている。庭園内には利休が自ら建立した墓を囲むように三千家の墓が並ぶ。毎月28日には、三千家の家元が交代で「利休忌」を営む。この日は。亭主も客人も開祖をしのび、茶の供養をするという。

Clip to Evernote  Check