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「文化財の修理の現場から」は「建築ニュース」671号(1997年2月)~705号(1998年9月)まで連載された記事です。記事の内容は「建築ニュース」に当時掲載されたままになっています。ご了承下さい。

壬生寺 大念佛堂

1997年7月15日(火)

建築ニュース681号より転載

15.jpg大念仏堂2階部分を南西から見る

 四条通の喧騒から南に少し入ったところ、古くからの京町屋が建ち並ぶ中に、律宗の別格本山・壬生寺がある。この寺院は761年(天平宝字5)鑑真の開創と伝える古刹である。下って1788年(天明8)に市中の大火で伽藍はことごとく焼失したが、本堂は1825年(文政8)になって再建された。幕末には、近藤勇や土方歳三など佐幕派剣客を集めた新撰組の屯所にもなったことでも有名で、境内には近藤勇の銅像とともに浪士たちの墓もある。

 壬生狂言を演ずる大念仏堂も、天明の焼失後に仮建て。その後、1856年(安政3)になって再建されたのが現在の建物で、重要文化財に指定されている。

 大念仏堂は安政の再建ののちも明治から近年にわたって改築され、背面には付属建物が設けられ、さらに1953年(昭和28)には1階部分が保育園として使用されたことがある。このように後世の修理・改築が相次ぐと、文化財の指定は難しくなるのだが、壬生狂言という古来からの伝統芸能とあわせて、指定を受けることになったと思われる。

16.jpg入母屋破風の懸魚と蟇股

 大念仏堂は、木造二層の波瓦葺き入母屋造。1階部分は田の字型に、衣装間、小道具間、面の間、客間を配しており、さしずめ劇場における「楽屋」として利用されたのだろう。2階の南側が狂言を演ずる舞台であり、北側は小屋組みで大屋根を支えている。なお、構造材はすべて桧である。

 私(横井)が、解体修理に入ったのは1983年(昭和58)11月。工事は1986年(昭和61)に完了したのだが、全体に古い建物であることに加えて、東側の雨漏りが原因で、小屋の一部と虹梁(こうりょう)が腐朽しており、放置しておくと屋根の荷重を支えきれなくなるという、危険な状態であった。

雨漏りで危険な状態 虹梁の腐れを埋める

 腐っていた束や桁などを新材に差し替えるのだが、複雑をきわめたのが虹梁仕口の埋木補修だった。東側丸桁(がぎょう)に接続する部位の虹梁は、幅八寸・厚みが尺五寸という大きな桧材だが、相当に腐朽しており、仕口を切り欠いたうえ同材にて埋木を施し、強度を確保するのである。

 また東側の柱列の下部には土台があったのだが、この土台は、礎石の上に煉瓦を積み、さらにその上に据えてあった。

 元は礎石に直接柱を建てる形式だったのが、柱の根元が腐朽していたことと、地盤が不等沈下したことで、後世の修理の際に煉瓦積と土台を挿入したことがわかった。今回の修理では、元の寸法に柱を根継ぎし、旧状に復原したのである。

 また、1階が保育園の施設に使用されていた時代には、採光のため客間の西寄りに天窓があけられたのだが、これも旧状の板張りの天井に復原。保育園は現在、念仏堂の向かいに移転している。

17.jpg解体中の大念仏堂。手前が桧厚板の舞台

 2階の舞台には厚み一寸の桧板が張りつめてある、幅の広いものは尺二寸ほどのものもあり、ピカピカに磨かれている。実際に人が出入りするためか、舞台は手入れが行き届いているようだ。また舞台には、装飾をあしらった部材を多く使用しているので、養生にも細心の注意を払った。

 私は、狂言にはあまり関心はなかったが、解体修理に入ってしまう以前に、いちど観ておこうと、壬生寺を訪れた。演目は記憶していないが、笛や太鼓の伴奏のほかは、一切無言で演じられる狂言は、時空をこえた感動を与えてくれる。解体修理がきっかけとなって、狂言見物に出かけることになったのも何かの縁があったのかもしれない。

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