ナビゲーションをスキップ
月別
「文化財の修理の現場から」は「建築ニュース」671号(1997年2月)~705号(1998年9月)まで連載された記事です。記事の内容は「建築ニュース」に当時掲載されたままになっています。ご了承下さい。

六波羅密寺 本堂

1997年6月15日(日)

建築ニュース679号より転載

13.jpg北西より本堂正面をのぞむ

 東山区の住宅街に囲まれるように建っている六波羅密寺の開創は、平安時代後期に遡る。六波羅の地名は、この地域に平家の邸宅・六波羅殿があったことに由来する。寺の詳細な開創年については諸説あるが、963年(応和3)の空也上人によるとの説が有力である。

 鎌倉時代、寺域には幕府直轄の六波羅探題がおかれ、北条氏一門が政務・裁判を総轄するなど、朝廷ならびに西国ににらみをきかせていたことは有名だが、後醍醐天皇ら反幕府勢力によって探題もろとも寺は相当の災害を受けた。

 重要文化財たる現在の本堂は、桁行七間、梁間六間の寄棟造、本瓦葺であり、三間の向拝(こうはい)を配し、東向きに建っている。

 建立は「修造勧進帳」によると1363年(貞治2)になり、その後1605年(慶長10)に豊臣秀吉による大修理がされている。應仁の乱による戦火を免れた数少ない建築物でもあり、今回の修理で天台宗形式の内陣を有する貴重な中世建築であることが判明した。

14.jpg本堂大屋根を支える複雑な小屋組(S40年撮影)

 今回の修理は、1965年(昭和40)の元旦に着手し、4年をかけて完工。軸部の虫害や腐朽による差し替え材が多かった。そして解体中の調査で、床張りの内陣が延暦寺根本中堂と同様の土間形式になることが判明し、また柱間装置などに、前の時代の修理(1926年・大正15)で失われた個所が発見されたので、これを旧来の様式に変更する仕事もすることとなった。

12.jpg格天井と巨大な繋虹梁(つなぎこうりょう)が見える本堂外陣

 正面両端より第二間には格子戸の引戸が配してあったが、実はこれは大正時代のもので、慶長時代にはこれが両開きの板扉であることが判明。さらに、正面両端間と両側面前端間の連小窓も、もとは土壁であったことがわかり、それぞれ旧状に復元した。

 本堂内陣の須弥壇を撤去し、基壇下を発掘していると、地下に二層の焼土層があることから、現状の本堂以前に前身本堂があり、1183年(寿永3)の本堂焼失の記録が裏付けられた。

 じつは私(横井)が、大工棟梁としてはじめて解体修理に臨んだのが、この六波羅密寺で、私が34歳のときのことである。

 工事経験もそれなりにあったので、棟梁をいさんで引き受けたが、屋根を降ろして現れた、複雑で巨大な小屋組を見て度肝を抜かれた。「本当に自分にこの工事ができるのか」と不安になった。さらに、仲間の大工は私より年上で経験も豊富。中には棟梁格の大工もいて、仕事の采配には、たいへん神経を使い、眠れぬ夜もままあった。

 また、境内はきわめて狭く、解体部材の保管や刻みは、近くの建仁寺の敷地を借りておこなった。

 大工・職人に弱いところを見せられないのが、棟梁たる者のつらいところ。今ふりかえれば「六波羅」ではじめて経験した棟梁という立場は、その後の大工としての私の生き方に、自信をもたせてくれたと思っている。

Clip to Evernote  Check