この塔の解体修理は、昭和29年からはじまり同34年までかかる大仕事で、修理前は、とくに屋根の傷みが激しく、茅負(かやおい)や裏甲(うらこう)、垂木のあちこちが腐っており、軒先が波うつような状態だった。
棟梁を中心に大工8人と手許4人が現場に常勤し、前の時代の修理で、創建当初の姿を失っている箇所を復元するのである。
三手先斗
の隅組の二手先目の秤肘木が連続した形態になっていたのだが、これをもとの分離した形に復原すること。初重の側柱の下に大きなケヤキの土台があったが、これを元通り礎石の上に柱を立てる当初の工法に戻すこと。大きな復原箇所はこの二つだった。
ヒノキの芯柱は直径二尺一寸で、ひときわ大きな礎石に据えてある。四天柱と側柱(ケヤキ材)には、土台がしつらえてあったが、これを取り去った分だけの根継ぎをし、高さを合わせるのである。
傷んだところは新材に替え、初重から順に組み上げてゆく。長い年月を経た材はクセが強く、面(つら)を合わせるのに苦労した。
毎日が水糸とのたたかい
それだけではない。塔はよく揺れる。屋根の頂上には、相輪(そうりん)の一部である方型の露盤(ろばん)に半球型の伏鉢(ふせばち)が載っているのだが、露盤にはいくつもの揺れ跡が、円弧の筋となって残っているのである。
三手先の一手目で合わせたと思っていたら、翌朝にはもうひずみがきている。これが三手あり、さらに五層あるのだから、毎日が水糸とのたたかいであった。
このように建ちあげていくと斗
などに若干の隙きができてしまうが、土台になっていた古材を薄く板挽きし、埋め物とした。
垂木の先端には茅負を渡し、この上に一寸厚の裏甲を二重に葺き、さらに本瓦が載る。垂木は並行垂木であるが、上部の裏甲は流し板状になり扇形に葺いてあるのも、この塔の特徴で、平安時代の建築構法を残す点で貴重である。
京都府内にある五重塔ではじめての「全面解体」の修理であったが、その後も全面解体の例はなく、貴重な体験となった。
工事を執り仕切った棟梁は北区の北村誠一郎さん。北村氏はいまも健在で、息子さんも宮大工を継ぎ、銀閣寺書院など、社寺で腕をふるうこと多数と聞く。羨ましいかぎりである。
